稲城の生活

稲城の歴史

稲城市だけを見ても、日本の歴史をある程度辿ることができます。

旧石器時代

稲城市の坂浜(鶴川街道の途中にあります)で5万年前の前期旧石器が発見されました(1987年)。これは 東京に5万年前から人が住んでいたという証拠となっています。4万年前(三沢川多摩カントリークラブ入口南側)、 3万年前の石器も見つかっています。日本で見つかる石器の最古級と言えるでしょう。日本列島がユーラシア大陸 から離れたのは1万2, 3千年前なので、離れる前の時代のものが発掘されたことになります。稲城市には、坂浜の この遺跡の他、14箇所の遺跡があります(坂浜、百村、平尾、三沢川付近)。旧石器時代の人達は、狩猟、採集、 魚とり(多摩川、三沢川)で食料を得ていました。

(注:旧石器は打製、新石器は磨製という定義)

縄文時代

1万2000年前から2300年前までが縄文時代です。この頃、磨製石器も使われるようになりました。

稲城市には、83箇所もの縄文遺跡があります。特に、坂浜地区の駒沢学園校地内遺跡は当時の生活を 知る上で重要な遺跡です。土器のかけら、槍の先に付ける尖った石器が見つかりました。百村の遺跡には、猪など の動物を捕まえるための落とし穴も見つかっています。

若葉台駅北方500m、上谷戸(かさやと)には、縄文時代の住居59軒が見つかっています。当時のゴミ捨て場から類 推するに、胡桃やどんぐりの木の実、小魚、猪、鹿を石器などを用い、食料としていました。その他、耳飾り、 土偶も見つかっています。

縄文時代の後期には、気候の冷涼化、富士山の噴火などにより、人の活動は一時衰退しました。

弥生時代

平尾台原遺跡にて、1977年〜1978年の発掘調査で、弥生時代の村が発見されました。弥生時代にて 関東地方に米作りが伝わったのは、紀元前1世紀ごろです。平尾にも、米作りをした人達が住んだ竪穴式住居が 見つかっています。平尾台原遺跡からは、死者を葬る方形周溝の墓も見つかっています。

弥生時代の後期になって、東京の他地域、北区、中野区、世田谷区、八王子にも同時期の遺跡が 見つかっています。やはり、米作りによって安定して食料が得られ、人口が増加して住む地域も広がっていった ということでしょうか。この後、4世紀から7世紀まで稲城市の歴史の空白期間があります。

奈良時代

奈良時代は仏教の力が大きく、武蔵の国も例外ではありませんでした。武蔵の国の中心は、府中に おかれました。寺をたくさん作る必要から、寺のための瓦がたくさん必要でした。稲城市では、 瓦を作る窯がたくさんありました。大丸のあたりです。

平安時代・鎌倉時代

平安時代の末期には、稲城市の殆どは、小沢郷に属していました。10世紀ごろには、源氏に就いて いました(特に頼朝)。頼朝の死後、政子の父、北条時政が幕府の実権を握りましたが、時政に小沢重政、及び その父の稲毛重成は滅ぼされました。小沢郷領地は、北条政子の養子の重成の孫娘に与えられました。 結局は、北条氏の支配下におかれました。足利尊氏の弟・直義が尊氏方からの攻撃をかわすため、府中、 及び、その後方支援として小沢城に陣を張りましたが、打ち破られました。小沢城は多摩川の近くなので 重要な拠点としての役割を持っていました。

南北朝時代・室町時代

稲城市の大部分が属する小沢郷は、摂津親秀の所領になりました。尚、坂浜・平尾は、師岡庄(もろおか しょう)です。

戦国時代

戦国時代にも、小沢城は、北条氏の拠点の1つとしての役割を担っていました。1530年には、小沢 原合戦が行われ、北条氏が勝利しました(『相州兵乱記』)。その戦場はおそらく小沢城の南側の原野であろうと 考えられています。これ以降、小沢城が、戦闘に使われた記録がなくなります。それは、北条氏が、武蔵国を 制圧したからです。

1590年、豊臣秀吉に北条氏が降伏し、応仁の乱以降、100年続いた戦国時代が終了しました。秀吉 は、全国統一の所領分割の際、武蔵(東京、埼玉)、相模(神奈川)、上総、下総(千葉県、茨城県南部)、伊豆、 上野を徳川家康に分配しました。稲城市は、武蔵国都筑(つづき)郡に属していました。

江戸時代(うち、家康や家光のあたり)

江戸時代になると、稲城市は小机領に属しました。いつ頃からかは明らかではないですが、後に 府中領(武蔵国・多摩郡・府中領)に変ります。そして、検地、村切りが行われるようになって、稲城市域に 「六か村」が成立しました。六か村とは、坂浜村、平尾村、矢野口村、長沼村、百村、大丸村です。このとき から、小沢郷、師岡庄の名前は使われなくなりました。

六か村は、江戸日本橋から六里(24km)から九里(36km)に位置し、村の戸数は、40-120と中規模でした (『新編武蔵風土記稿』)。

徳川家光の時代、幕府領を旗本に領地を与える政策となり、長沼村と大丸村が旗本朝倉豊明に、 矢野口村の大部分が旗本加藤良勝に、坂浜村が旗本天野重房に与えられました。矢野口の残りは、旗本中根正盛に、 百村は旗本坪内定鑑に、平尾は、黒沢氏に与えられました。

五人組:隣接する五軒で組を作り、互いに助け合うが、同時に相互監視(キリシタン、浪人)、 連帯責任の機能がありました。その史料として、平尾村の「武州多摩郡府中領平尾村御仕置五人組帳」、百村の 「五人組連判一礼」、大村村の「五人組御仕置書上帳」が残っている。

江戸時代(うち、吉宗のあたり)

吉宗の時代には、家康の頃にあった鷹狩を復活させたので、稲城市域でも鷹匠の荷物を神奈川の方へ 運んだり、宿泊を提供しました。

押立村の農民長五郎が母への長年の孝行ということで、大岡越前守忠相から、褒賞されたとのこと です。吉宗は、こうした孝行の褒賞により、儒教を浸透させようとしたのでした。そして、それを支配に活かそう としたのです。

江戸時代後期

府中の大国魂神社では黒船の渡来に対して祈祷を行いましたが、稲城の坂浜村からは、異国船に対する 警備を派遣しました。

稲城市は、多摩川沿いの地域を除けば、大部分は、多摩丘陵にあるので、農閑期には、炭を焼いて 販売していました。『新編武蔵風土記稿』の長沼村の部分に記載されています。

青謂神社の8/15の祭りは、盛大であって、江戸からも見物客が訪れ、数千人もの人が集まったそう です。

明治時代(稲城村の成立)

1889年4月1日、東長沼、矢野口、大丸、百村、坂浜、平尾の六か村は、一つの村となり、「稲城村」 と命名されました。

稲城の由来・説1:矢野口、東長沼、大丸に城があり、戦闘の際には、稲木をめぐらして矢を防いだ 、から

稲城の由来・説2:当初、小沢城ゆかりの姓・稲毛を選んだが、認可されず、それい近い稲城と なった。

初め、稲城は、神奈川県であったが、1893年に稲城市は、東京府に移管されました。多摩川を通って おり、東京に水を供給する重要な地域だったからです。

大正時代・昭和時代

1916年:新宿と府中を結ぶ京王線が開通。

1919年:稲城村に電灯が灯る。

1927年:南武鉄道(今の南武線)・川崎-大丸(今の南多摩)間開通。

1935年11月:多摩川原橋完成。

1944年:南武鉄道が国鉄(今のJR)に買収される。品川区から学童疎開の児童を受け入れ。

1971年11月1日:稲城市が誕生(稲城町から格上げ)。京王相模原線:京王よみうりランドまで開通。

1974年:京王相模原線・多摩センターまで開通。

参考文献:「稲城のあゆみ」, 稲城市, 平成3年11月発行。


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